ABCヒストリー

沿革

  • 1976 09月

    四谷にて有限会社アートブレーンカンパニー設立。

  • 1985 10月

    本社を中野新橋へ移転。

  • 1986 12月

    音響、照明器材を扱う会社として、有限会社システムアートを設立。

  • 1992 07月

    中野区弥生町に自社ビルを建設。事務所兼倉庫とする。

  • 1994 01月

    株式会社アートブレーンカンパニーへ組織変更。

ABCストーリー

Story 1 1976年、創業。

1976年は、有限会社アートブレーンカンパニーが四谷にて設立された年です。
その社名について、森田会長は「Artとは、もちろん芸術です。感性を磨き個性を伸ばし、一流を目指すこと。Brainとは、頭脳・知能です。頭を使って考えぬき、社会性を高めてお客様に喜んでいただくこと。Companyとは、仲間です。続きをみる

Story 1 1976年、創業。

その意味を強く意識して、チームワークをもって作品のレベルを上げること。中でも特に仲間ということについて、嫌いな人間を好きにならなくてもいいですが、チームワークを組める人間関係を大切にすることを伝えつづけてきました。」と言います。

ジャンルに関係なく、どんな仕事もベストを尽くしてスポンサーやお客様に喜んでいただけるように相手を理解し、提案し、努力を続けていくABCが、ここから始まりました。

Story 2 1977年、萩原健一のコンサートにて。

誰もやらないんだったら、私たちが最初にやる。

それは、1977年のこと。先日他界されたショーケンこと萩原健一さんのコンサートが東宝の撮影所で開かれました。そこで、おそらく照明では初めての試みが行われたのです。森田会長は当時を「ABCは、批判されるようなことをいっぱいやってきましたね(笑)。続きをみる

Story 2 1977年、萩原健一のコンサートにて。

当時は“目つぶしライト”と呼ばれていた客席に向かってのライトは、お客様を冒涜しているとまで言われましたから。」と振り返ります。「でも、せっかく大きなライトがあるんだから、真後ろに置いてエンディングでドカーンと点けて、そのまま光の中をショーケンがステージから降りていくという演出をしたんです。お客様からのアンケートには“雲の上を歩いているみたいに見えて、きれいだった。”という声が、いっぱい書かれていて。業界の人たちの方が、むしろ保守的だったんですよね。」誰もやらないんだったら、私たちが最初にやる。いつも先駆者としてABCが始めたことが、今ではあたりまえのことになっている事例が、たくさんあるのです。

Story 3 1966年、ビートルズの記者会見の裏側で。

「裏側の話だけどね…」と謙遜する森田会長に話してもらったのは、1966年に来日したビートルズの記者会見の照明の話。その会場になった当時の東京ヒルトンホテルの調光室にいたのが、まだ学生だった森田会長でした。「当日もスター・ヒル・クラブでの仕事があったのですが、いつもより警備が厳しくて。続きをみる

Story 3 1966年、ビートルズの記者会見の裏側で。

社員じゃない私が中に入るのは大変でしたが、ホテルのセキュリテイの担当者が出てきてくれました(笑)。仕込みから手伝って、ほんの少しアドバイスをさせてもらっただけですが、調光室から見ていた記者会見のことは、よく覚えています。メンバーたちが入ってくる前に明かりのイメージを話して、実際にフェーダーを上げたのはエンジニアの方でした。」と話す森田会長。日本のエンターテインメントの歴史的な瞬間に関わっていたこと。それを自分からは自慢話にしないこと。そこにも、確かなABCらしさが見られます。

Story 4 きれいな手 きれいな器材 きれいな配線 きれいな仕事

お客さまのために、私ならこうやる。

森田会長はABC創業の前から器材・機器を大切に扱うことに、こだわりつづけてきました。続きをみる

Story 4 きれいな手 きれいな器材 きれいな配線 きれいな仕事

「業界の古い考え方の中には“器材は傷ついてもいいんだ” というものがあったのですが、私はそれが嫌だったんです。まだプラダンも なかった時代で、器材を守るためにメーカーにダンボール箱だけ売って もらえないかと交渉しても最初は断られました。“前例がない”って。でも、 例えばフロアのショーでは、器材や配線はお客さまからも見えるわけで、 それを大切に扱うことは、あたりまえのことだと思っていました。森田さんのとこは器材がきれいだからって、わざわざショーの仕事をうちに回してくれたりする人も出てきたのです。」

その姿勢は、業界へと広まっていくことになります。「例えばハイエースの荷室に一つの劇場分の器材を載せる時、箱に入れようとしても全部は入らない としたら、裸の器材を傷つけながらガチガチに積み込むのと、丁寧に箱に 入れて2台で運ぶのと、どちらが本当の意味で経済的で信頼につながるか。 それは自分たちの仕事のレベルを上げていくことなんですよね。まだ駆け出し の頃、ある大道具の職人さんに“のこぎりを貸してください”と言っても、 貸してもらえなかった。“商売道具は、俺たちの命みたいなものだから”って。 なるほど、それが私たちにとっては、器材なんですよね。」

きれいな手で、きれいな器材で、きれいな配線で、きれいな仕事をする。ABCの土台とも言えるこの企業姿勢は、近年の現場でもブラジル人のDJから「配線ケーブルの美しさが素晴らしい!」と言われるなど、私たちの手に受け継がれているのです。

Story 5 ファッションもABC

「私に自分の会社を作ったらいいじゃないかと言ってくれた恩人が、東阪企画の故・武井泉会長で。その武井さんから、あるファッションショーの仕事で相談されて、アイデアを出してみてと言われたので、じゃあ花道の両側に出たばっかりのハロゲンのストリップライトをズラッと並べてみたらどうですかと提案したんです。」続きをみる

Story 5 ファッションもABC

ショーの花道の両側に、ストリップライトを並べてみた。
ABCのファッションショーの仕事の始まりを、森田会長は「私に自分の会社を作ったらいいじゃないかと言ってくれた恩人が、東阪企画の故・武井泉会長で。その武井さんから、あるファッションショーの仕事で相談されて、アイデアを出してみてと言われたので、じゃあ花道の両側に出たばっかりのハロゲンのストリップライトをズラッと並べてみたらどうですかと提案したんです。
そうしたらおもしろがってくれて、よし!自分の演出料を全て渡すからやってみてくれと(笑)で、やってみたら大成功で、お客さんから拍手が起きました。森田だったら、おもしろい提案をするだろうと思ってくれていたんですよね。それからしばらくは、花道にストリップライトを並べるのが流行ってしまいました。」と話します。

「はじめは小さいクライアントの仕事ばかりしていましたが、ひとつひとつ反響を呼びながら仕事が増えてきて、機材も増えてきて。ファッションショーの花道で使ったストリップライトなんか、1本の長さが1,800あるんですよ。それが20本くらいあって、業界にもあまり無かった最新のライトを、いつまでも親戚の家に置いておくわけにもいかず、倉庫を借りなきゃと見つけたのが、やがて本社を創業する場所になった四谷の本塩町の半地下みたいな事務所でした。」

みんながバカにしていた仕事も、結果を出せば評価になる。
「ファッションショーの仕事を始めた頃、あんなのは電気屋の仕事だって、みんなバカにしていたんですよ。ホテルのフロアとかじゃなくて、劇場でやる仕事が自分たちの仕事だと思ってたんですよね。でも、ホテルでやる時も、例えば穴が不規則に並んでいるならそこからバトンを下げて全部の照明を付けて。それも評価されましたね。」 

昔からこうだからではなく、自分にできることを考えてきた。
「ファッションショーのヘアメイクの担当者とは、しょっちゅう喧嘩していました(笑)。
私が関わるまでのファッションショーって、みんながオバケみたいな化粧で。クレームを入れたら『昔からこうだから』って言う。いや、昔はそうかもしれないけれど今は照度も上がっているし、わざわざモデルを汚く見せたいのかと。ナチュラルに変えてくれと言って大ゲンカになったけど、リハーサルの時に見てもらったら納得してくれて、変えてくれましたね(笑)。」

今までにない反応を、お客さまがしてくれて、次につながる。
「プロとして、先輩から言われるままではなくて、照明だってメイクだって、自分の仕事を真剣に考えなくちゃいけないんですよね。私自身は、ファッションに特化して仕事をしてきたつもりはなく、基本スタンスは『来る仕事は拒まず』でやってきたつもりです。今までにない反応をお客さまがしてくれたからこそ『次回もよろしくね』となる。その繰り返しでした。」

Story 6 ファッションもABC

「モデルをきれいに見せたい、洋服をきれいに見せたい、色柄だけじゃなくて素材もちゃんと見せたいというのが私の発想でした。」続きをみる

Story 6 ファッションもABC

モデルをきれいに見せる、洋服をきれいに見せるという発想で。
森田会長は話します。「以前のファッションショーの照明は前明かりで、とにかくドカンと明るくすればいいんだという世界だったんです。それを私は、花道に沿ってライトを入れて、正面からもサイドからも押さえの光を入れて、モデルが出てきた瞬間にフワッと浮き上がるような明かりにしてみたんです。これ、ファッションショーだからじゃなくて、コンサートでも同じなんですよね。登場した瞬間から、それなりに見える明かり、ただそれだけのことです。モデルをきれいに見せたい、洋服をきれいに見せたい、色柄だけじゃなくて素材もちゃんと見せたいというのが私の発想でした。」
 
やるんだったら、お客さんに拍手させたいという気持ちでした。
「他の人がやらなかったから、自分でやったんです。始めた当時はファッションショーっていうのは、みんなはやりたがっていませんでしたからね、この業界では。誰に教わったわけでもなく、自分なりに考えてやってきました。私がやるんだったら、お客さんを喜ばせたい、拍手させたいっていう、その気持ちだけでしたね。」 

「お客さんの反応がいい時は、やっぱりものすごく気持ちいいです。調光室から顔を出して、私がやりました!このシーンは私が作ったんです!って言いたくなるくらいの気持ちになります。スポンサーさんより観客の皆さんが盛り上がってくれると、やった!という感じになってね。」
 
この程度でいいだろうっていう言葉が、もう大っ嫌いでした。
「私は、この程度でいいだろうっていう言葉を吐く人間が大っ嫌いで。もう時間がないから、ちゃんと決めてもいないのに次へ行こうとか、この程度でいいという言葉を聞くと、ブチ切れていましたね。
その程度でいいんだったら、次回から、その程度でいいところに頼んでくれって。
私は、その程度で手を打つ仕事は絶対にしたくありませんでしたから。」
 
「やっぱりぶつかるっていうのは、お客さんを喜ばせようと思っているからなんですよね。
演出家は演出家で、そのショーを良くしたいと思っているんです。そこに違いがあれば、当然ぶつかることになる。私も納得しないし演出家も納得しない時には、私が折れた後でも飲んだ時に思い出して、あそこはやっぱりこうするべきだったと、結局ぶつかっちゃう(笑)。」 
 
10人いたら、10通りの明かりがあっていいと思います。
「感覚ですから、どんなに頑張っても全く合わない人って、いるんですよ。その人が納得できて喜んでくれるような明かりを作っても、私自身は煮え切らない気持ちになったりして。それは感性の違いだから、しょうがない。そういう人には別なスタッフを紹介してみて、そうすると、そのスタッフの感性と不思議なくらい合ったりするんですよ(笑)。10人いたら、10通りの明かりがあっていいと思っています。」

Story 7 1984年。 ABC、ニューヨークで拍手を浴びる。

三越でのフロアショーがファッションデザイナーのオスカー・デ・ラ・レンタとの出会いだったと、森田会長は話します。続きをみる

Story 7 1984年。 ABC、ニューヨークで拍手を浴びる。

三越の仕事で、オスカー・デ・ラ・レンタに指名される。
三越でのフロアショーがファッションデザイナーのオスカー・デ・ラ・レンタとの出会いだったと、森田会長は話します。「三越でのオスカー・デ・ラ・レンタの仕事を本人が気に入ってくれて毎年やっていたのですが、ある時に本人の知らないところで別な会社に依頼されたことがありました。そうしたら、オスカーが頭から湯気が出るほど怒ってしまって森田を呼べ!”って。今回はしょうがないけれど、次回からは必ず森田を呼ぶようにと、指名が続くようになりました。その流れで、通訳の人を連れて来た本人から“ニューヨークのショーを手伝ってくれ”と言われて、まさか本当に行くことになるとは思いませんでした。彼は本気だったんですよね。まいりました(笑)。」
 
ニューヨークでのショー。結果を出すことで、認められる。
ニューヨークでの仕事について「ステージの図面をもらって“こういう機材をこれだけ用意してくれ”とお願いして向かったら、向こうの照明の担当者が“こんな機材、今時もう博物館ものだぜ”って言ったんです。服がきれいに見えるようなソフトな明かりを考えて、レンズも細かく指定して。でも、アメリカのスタッフがスゴいなと思ったのは、ショーが終わった時にお客さんの反応が相当よかったので、“オスカーが、わざわざ森田を呼んだ理由がわかるよ”って、ちゃんと認めてくれるんですよね。当時の現地のスタッフのレベルは失礼ながら低かったのですが、結果を出すことで次からは吉村も連れて行くことができ、さらに仕事が早くできるようになりました。余裕でしたね(笑)。」という森田会長です。

オスカーが見せたかったのは、森田さんの『カクテルの妙』でした。
~MATSUDA(マツダ弘光/ニコル)の演出でNYに来ていた長谷川増さんに手伝ってもらうことに~
演出家の長谷川増さんは当時のことを「ニューヨークの会場は、ファッション工科大学のホールでした。現地のスタッフはA班B班のシフトでの対応でしたが、手が遅くユニオンが厳しいため、23時以降は森田さんと二人だけで仕込みをしていました。器材に触ったこともない私が森田さんに怒られながら脚立に上がって、朝まで照明を吊っていたのです。それは怖かったですよ(笑)。旧式の機材で、フィルターひとつ取ってもネジで止めるやつでしたからね。思い出すのは、徹夜してコーヒーを飲んで戻ってきたら、オスカー本人ととても上品なご婦人がいらっしゃって握手をしてくださったんですが、そのご婦人がキッシンジャー氏(ニクソンおよびフォード政権期の大統領補佐官、国務長官)の奥様だったんです。本番ではキッシンジャー氏にもご挨拶ができて、感激でした。」と聞かせてくれました。「ファッションショーの照明は、当時はニューヨークもパリもまだ劇場的な演出で、むしろ日本の方が進んでいたと思います。すでに森田さん、関根さん、吉村さんが実践されていた『洋服とモデルをいかにきれいに見せるか』その『質』を見せていたのです。森田さんは特に色の使い方と組み合わせが素晴らしく、オスカーもそれをニューヨークで見せたかったのだと思いますが、まさに『カクテルの妙』でした。特に白系の組み合わせや、いかに黒をきれいに見せるかは絶妙でした!モデルの肌の『質』をきれいに見せるために、デイライトフィルターにうまくピンクを使われていたんですよね。」
ファッションもABC。それは、1980年代のニューヨークでのショーにおいても、認められていたのです。